
1444年頃 – 1510年5月17日
サンドロ・ボッティチェリ Sandro Botticelli
イタリアのフィレンツェ共和国(現在のイタリア北部)に皮なめし職人の四男として生まれる。
兄と同じく金細工職人として工房に入門した後、15歳の頃、フィリッポ・リッピに弟子入りして画家となる。
七年後にフィレンツェで最も有名な工房の一つ、アンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に参加して彼の弟子となった。
この時後にボッティチェリと同じくルネサンスの代表者となる七つ年下のレオナルド・ダ・ヴィンチと出会う(ダヴィンチはデッサンをあまり重視しないボッティチェリに苦言を呈したという)。
その後フィレンツェの実質的な指導者であり、ルネサンスに最盛をもたらした”メディチ家”のロレンツォ・イル・マニーフィコ(1449-1492)のお抱え画家となった。
メディチ家は元は銀行を営む一市民に過ぎなかったが、その圧倒的な財力でフィレンツェの実権を握った僭主である。
代表作に『プリマヴェーラ(春)』、『ヴィーナスの誕生』など。

1482年頃 【プリマヴェーラ】
「Primavera」はイタリア語で”春”を意味する。特定の題材がある訳ではなく、あくまで春の観念を表現した寓意画(アレゴリー)とされている。
豊かさや実りを象徴しており、腹部が懐妊している様に描かれているのはその為である。
一番右端で何者かに攫われかけているのが妖精クロリス。その隣でバラを撒いているのが花の女神フローラ。
クロリスとフローラは同一人物であり、フローラは彼女を攫ったゼピュロスの妻となったことで妖精クロリスが昇格した姿である(妖精は半神、あるいは下級の神とされている)。
中央で全体を見守る様にして立っているのが美の神ヴィーナスで、その左手前で戯れている三人がいわゆる”三美神”。
彼女達は左から順に美のエウフロシネー、貞節のタレイア、愛のアグライアーとされ、オレンジの木の前いるキューピッドが真ん中のタレイアを狙っているとされる(彼女だけが既婚者の証である首飾りを身に付けていない)。
左端で何かを見上げる様にして立っている男性はメルクリウスで、技芸に優れる彼は手に持ったカドゥケスの杖(聖なる力と蛇を纏う杖)で荒天から春を守護している。
全部で138種類の草花が描かれているとされており、それらは全てボッティチェリが自身の植物標本を参考にして描いた実在の植物である(特に目立つオレンジは彼の後援者であったメディチ家を象徴したものとされている)。

1482年頃 【パラスとケンタウロス】
ハルバード(重装歩兵、あるいは守衛などが用いる槍と斧を組み合わせた武器)を手に傲然と見下ろすパラス・アテナと、まるで何かを見咎められたかの様な顔で髪の毛を掴まれているケンタウロスを描いた作品。
寓意として意味することは明らかで、劣情が貞潔によって制圧される様を描いている。
邪なくわだてを抱くケンタウロスを取り押さえる無慈悲なアテナの表情は、ホメロスに代表される奔放かつ快活な女神とは些か趣が異なるが、ここではそれを逆手に取っているのであろう。
また”パッツィ戦争”を意識しているのではないかという説もある。
パッツィ戦争とは、パッツィ家とパッツィ家と結んだ教皇シクストゥス4世が策略を用いてメディチ銀行の権利を取り上げようとしたことに端を発する戦争で、最終的にはメディチ家の勝利で終わったが、陰謀に対する勝利を描いた作品と見ることも出来る。

1483年頃 【ヴィーナスの誕生】
風に吹かれてキュプロス島に流れ着いた貝殻から”アプロディーティ(ヴィーナスのこと)”が誕生した瞬間を描いた作品。
彼女はゼウスによって切り取られたクロノスの体の一部から生じた泡から生まれた女神であり、貝殻(ホタテ貝)から誕生した様に描かれているのは泡に包まれ、海の中で育ったことを表すためである。
アプロディーティに風を吹き掛けて島まで運んでいるのは西風のゼピュロスで、抱えている女性はクロリスか、あるいは彼の対となる北風の神ボレアスの娘アウラとされている(ゼピュロスの足元に発色の良い金色が用いられているのは左から右への視点を促す為とされている。)。
丘でアプロディーティを迎え衣服を着せようとしている女性は後に彼女に仕える季節の女神ホーラーで、彼女が着物を与えるシーンはヘシオドスの『神統記(ウラノスからゼウスを描いたギリシア神話の原典的な古典)』やホメロスにも登場する。
ギリシア神話は大まかに次の三期に分けることが出来る。すなわち混沌から宇宙を創成したウラノスの時代、ウラノスの息子であるクロノスの時代、そしてオリュンポスの神々、つまりゼウス達の時代。
フィレンツェ・ウフィツィ美術館所蔵

1485年頃 【ヴィーナスとマルス】
ヴィーナスとマルスと四人の幼いサテュロスが描かれた作品。
婚礼の品として新婦の寝室に飾ることを目的として制作された絵画と考えられており、眠る戦いの神を見つめる美の女神と子供達がその周りで戯れているといった様子を表している(ヴィーナスとマルスは不貞の関係とされている)。
ヴィーナスとマルスの子供がサテュロスという話は存在しないが、ここではあたかも彼らの子供の様に描かれているのは、この作品が純粋に享楽的な喜びを表現したものであり、その中で彼らの関係を揶揄したものだからであろう。
画面左側ではマルスのサレット(兜)と槍で遊ぶサテュロス、右側では眠っているマルスをほら貝で起こそうとするサテュロスとマルスの鎧に潜り込んで遊んでいるサテュロスが描かれている。
ボッティチェリはあまり正確なデッサンを重視するタイプではないとされているが、この作品では、特にマルスの優美な裸体はかなり正確に描かれている。
ボッティチェリの代表作である『プリマヴェーラ』、『パラスとケンタウロス』、『ヴィーナスの誕生』、『ヴィーナスとマルス』の中で唯一フィレンツェのウフィツィ美術館が所蔵していない作品である。
ロンドン・ナショナル・ギャラリー
