1870.4.22 レーニンの誕生
ソ連の創設者であるウラジミール・レーニンが誕生する。
17歳の頃皇帝暗殺計画に関与した兄が殺されたことで革命思想に染まり、カザン大学を放校される。
その六年後に後の理論的支柱となる「マルクス主義」と出会う。ドイツのカール・マルクスが説いたこの思想を推進力に既存の社会主義思想を発展させたものがやがて「共産主義(私有財産の完全な撤廃)」と呼ばれるようになる。
その後27歳の頃に頃に扇動罪で逮捕され、シベリアの寒村に三年間流刑となる。
しかし文筆や同志らの手によって外部との接触は保たれており、1898年「 ロシア社会民主労働党」の結成に加わり、1900年に釈放された後、彼らに合流する。
このロシア社会民主労働党が後の「ボリシェヴィキ」の前身である。
1903.7 ボリシェヴィキの誕生
レーニンが釈放されてから約三年が経過したこの時期、ロシア社会民主労働党は党の求める構成員の要件・党の方向性(党員資格の規約)で、職業的革命家を志すレーニン派と大衆参加型の政党を目指すマルトフ派で対立していた。
そこで彼らは党大会(議論や投票を行う会合のこと)を開き、決選投票を行ったが、投票の結果はマルトフ派の勝利で終わった。
しかし党の思想を内外に喧伝する機関誌(ロシア社会民主労働党が発行していたイスクラという機関誌で”火花”という意味)の編集委員や、その他幾つかの重要な議題ではレーニン派が勝利しており、特に党の思想とアイデンティティそのものを決定付ける機関紙の編集委員は党員規約と並ぶ重要事項の一つであった。
そこでレーニンは自らが党の主流であることを示す為に、開票時のアナウンスである”ボリシェヴィキ(多数派)”を自ら名乗り、後には正式な政党名として採用したーー”ボリシェヴィキ”の原点である。
そして一方のマルトフ派には「メンシェヴィキ(少数派)」というレッテルを貼り付けた(しかしマルトフも後に自ら”メンシェヴィキ”を名乗っている)。
こうして暴力をも辞さない急進的なレーニン率いるボリシェヴィキと、マルトフを中心とする穏健なメンシェヴィキに分かれ、ロシア帝国初のマルクス主義政党であるロシア社会民主労働党は結成から十年余年を経て実質的に分裂した(完全な分裂は1912年以降)。
他の政党の活動
この時期ロシア国内では他にもフランス風の自由主義と共和制、あるいは立憲君主制を掲げ、資本家・知識人から支持を集めていた「立憲民主党(カデット)」や、土地の共有化を掲げ、農民層からの支持を集めていたレーニンらと同じく社会主義系の「社会革命党(エスエル)」といった様々な政党が各地で支持を拡大させていた(この二つの政党名はそれぞれ”Constitutional Democrats”と”Social Revolutionaries”の頭文字を取って発音をもじったものである)。
特に「立憲民主党(カデット)」は、後の「二月革命」の新政権において多数派を握った政党として重要である。
1905.1.22 血の日曜日事件
後に各政党の活動を激化させ、ロシア帝国崩壊のきっかけとなった事件で、平和的な要求を掲げる市民を政府側が殺傷した事件。
市民側の要求は、「8時間労働(19世紀初頭のイギリスで現在の8時間労働が初めて提唱された)、労働環境の改善(休憩、衛生、安全など)、賃上げ」、「言論・出版・集会・結社の自由」、「人民の代表による議会、憲法の制定」、「日露戦争の終結」などで、参加者は十万人程でうち死者は、政府側の報告では数百人か千人以上、市民側の報告では四千人以上とされている。
デモの内容は皇帝や聖像の肖像を掲げて唄いながら、冬宮(ロシア帝国の王宮のこと)があるサンクトペテルブルク(1914年にペテログラードとなり、後にレニングラードに改称され、その後再び現在のサンクトペテルブルクとなった)に向かうというだけのものであったが、デモの決行と嘆願の内容を事前に知っていた政府側は、日露戦における連敗や、疲弊した経済の不満から帝国の威信が失墜するのを恐れ強硬手段に訴えた。
現在では皇帝が命じたものではないとされているが、無抵抗な市民に対する容赦のない発砲は、民衆が皇帝に抱いていた素朴な幻想を打ち砕くには十分であった。
これ以降、帝国の求心力は低下の一途を辿り、各地で民主化を求める声が激化し、やがて帝政は解体され、旧態依然としていたロシア国内も激動の時代へと向かって行く。
1914.6.28 サラエボ事件
後の第一次世界大戦の直接の契機となったオーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナントとその妻が、民族主義を掲げるセルビア人の青年に暗殺された事件ーーサラエボは、現在の共和制国家である「ボスニア・ヘルツェゴビナ」の首都である。
この時期帝国からの独立と解放を求めてボスニアやセルビア王国(現在のセルビア共和国)、クロアチアやブルガリア、スロベニア、マケドニア、モンテネグロといったバルカン半島(東南ヨーロッパのほぼ全域)にまたがる民族の間で「汎スラヴ主義(南スラヴ人の解放と主権の確立)」が広まっており、国家ではなく、民族として団結する動きが活発化していた。
しかし中には、国家をまたぐ汎民族的結束を説くというより、「セルビア民族主義」の様に特定の民族を中心に民族の統合と再編を説く派閥も存在し、皇太子を殺害した青年が属していた”黒手組”と呼ばれるグループもまさしくその例であったーー彼らは「大セルビア主義者」と呼ばれ、民族的優位性をも掲げる最も急進的な一団であった。
彼らの狙いは多くのセルビア人が住むボスニアとセルビアを一つに統合することであったが、1908年にオーストリア・ハンガリー帝国によって先にボスニアが帝国に併合されてしまい、そこで帝国の皇位継承者である皇太子の殺害を企てた。

スラヴ人
南スラヴ人: セルビア人、クロアチア人、ブルガリア人、スロベニア人、マケドニア人、モンテネグロ人、ボスニア人
西スラヴ人: ポーランド人、チェコ人、スロバキア人、ソルブ人など
東スラヴ人: ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人
1914.7.28 第一次世界大戦
1908年のオーストリア・ハンガリー帝国によってボスニアが併合される以前からボスニアは、1878年の「露土戦争(ロシア帝国とオスマン帝国の戦争)」におけるオスマン帝国の敗北により、オーストリア・ハンガリー帝国領「ボスニア・ヘルツェゴビナ共同統治国」となっていた。
そもそも交戦国ですらないオーストリア・ハンガリー帝国が領土を取得しているのは、ロシアの南下政策を食い止めたいドイツの仲介によってロシア帝国とオスマン帝国の間で結ばれたサン・ステファノ条約(講和条約)を修正させられ、ドイツのビスマルク主導のもとボスニアをオーストリア・ハンガリー帝国領とするベルリン条約を結ばされたからである。
この時は宗主権はオスマン帝国のまま、軍事権と行政権だけオーストリア・ハンガリー帝国に委譲しただけであったが、ロシアにとっては屈辱的な出来事であり、汎スラヴ主義を利用してバルカン半島へ進出する足掛かりとする為、南スラヴ人を支援するきっかけとなった。
そこで「サラエボ事件」によってセルビア政府に宣戦布告したオーストリア・ハンガリー帝国に対し、ロシア帝国もまた軍事動員を開始した。
そしてこれに対してドイツもまたロシア帝国に対してただちに宣戦布告した。
こうして東南ヨーロッパ全域に及ぶバルカン半島で支配的な地位にあった列国が次々と参戦を表明し、欧州以外の覇権国も動き出し、欧州全域は瞬く間に戦火に包まれーー人類史上初とされる総力戦ーー第一次世界大戦が始まった。
この様に誰かが動けば誰もが動き出す緊張状態を指してバルカン半島(東南ヨーロッパの大分部の地域)は”ヨーロッパの火薬庫”と呼ばれていたーーしかしこれほどの戦闘になるとは当時の参加者は誰も思っていなかったという。
・主な交戦国
連合国:イギリス帝国、フランス共和国、イタリア王国、ロシア帝国、アメリカ、日本
同盟国:ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、ブルガリア王国、オスマン帝国(トルコ)
