3.戦線からの離脱

1917.11.8 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の誕生

しかし十月革命直後に行われた初の普通選挙で最大議席数を獲得したのは都市の兵士や水兵を支持母体とする「ボリシェヴィキ」ではなく、農民を支持基盤とする「社会革命党(エスエル)」であった(ボリシェヴィキ24%・エスエル40%でボリシェヴィキは第二党)。
そこで自らが少数派であることを悟ったレーニンは、武装したボリシェヴィキを議会に送り込み、強制的に議会を解散させ、選挙の結果を無効にした。
十月革命後の普通選挙は財産や性別などの制限がなく、当時の西欧諸国と比較してもかなり進歩的であったが、かように民主的な選挙とその結果でさえも反故にすることが出来た背景には、プロレタリアートによる一時的な独裁は、労働者を中心とする社会を実現する上でやむを得ないとするマルクス主義の理念があったーーこれなくして民意を破壊するほどの強硬手段に訴えることは出来なかったであろう。
そしてこの理念を実現する上で、第一次世界大戦により疲弊しきっていたロシアの即時戦線離脱を唱えていたレーニンの主張は、数は少ないが都市部に集中し、組織的な行動が取れる武器を持った人民、すなわち軍人から圧倒的な支持を得ていたため、武器を持たない議会主義を力で封じることができた。
またレーニン以外の多くの指導者が戦争継続を支持しており、戦闘に従事する者がそうではない者の意図に従属させられるという構図こそ、プロレタリアートの立場における”反ソビエト(議会)”であった。
こうして選挙ではなく「ソビエト(評議会)」の信任を受けたという形で民意を踏襲したボリシェヴィキはまもなく、全権力がソビエトへ移行したことを宣言し、様々な原則・規則を発布した。
その中で最も重要なものが、「平和に関する布告」、「土地に関する布告」、「ロシア諸民族の権利宣言」、「労働者の権利と搾取される人々の権利の宣言」である。

各種の布告

・平和に関する布告
全ての交戦国に対する停戦の呼びかけと、秘密外交の廃止と公開、そしてソビエト政府が講和条約を結ぶにあたり、その諸条件を国民と国際社会に提示することを約束したものーー「無賠償・無併合・無割譲」というスローガンが登場するのもこの中である。
・土地に関する布告
旧帝国領、教会領、地主領などを含むロシア国内の大部分の土地を一度接収し、国有化した後に再分配することを定めたもの(ただし国有化=共産化ではない)。
・ロシア諸民族の権利宣言
基本的には、各民族は各民族の主権に従って民族自決をする権利を持つことを定めたもの(しかし実際にはウクライナ侵攻に見られる通り、場合によっては独立を認めず、紛争を引き起こさせない為の建前でもある)。
・労働者の権利と搾取される人々の権利の宣言
ロシア国民が持つ自由な権利と労働者の権利の確立と、それによる搾取者の排斥を定めたもの(搾取者の排除という例外付きではあるが、現代でいう人権思想と労働基本権について、その大まかな枠組みを述べたものといえる)。

1917.11.22 ウクライナ人民共和国の成立

1917年4月に発足された中央ラーダは、十月革命後に「ウクライナ人民共和国」を成立させた。首都はキーウ。
かつてはロシア帝国とオーストリア・ハンガリー帝国のポーランド分轄に巻き込まれ、帝政ロシアが倒れた後にはソ連に組み入れられ、ソ連とポーランドの間でポーランド領となり、最終的には第二次世界大戦のきっかけとなったポーランド侵攻によって全土がソ連領になるなど、占領者同士の思惑に翻弄され続けてきたウクライナにとって、この時期こそ確かに独立が存在していたと言える時期であり、現在の「ウクライナ」は、この時のウクライナ人民共和国こそ自らの前身であると明言している。

1917.12 ソビエト・ウクライナ戦争

「ウクライナ民主共和国」の誕生から約一月後、キーウの東側のハリコフ(現在のウクライナのハルキウ)に、中央ラーダのウクライナ民主共和国と全く同じ名前を持つ「ウクライナ民主共和国」が誕生した。
こちらはソビエト政府による完全な傀儡政権であり、区別する為に「ウクライナ民主共和国(ソビエト派)」と呼ばれている。
ただし、ウクライナ人民共和国(ソビエト派)を主導していたのは、レーニンが直接率いていたボリシェヴィキではなく、あくまでボリシェヴィキの思想に共鳴するウクライナ人である。
十月革命後の普通選挙で社会革命党(エスエル)に敗れたボリシェヴィキではあるが、それでもなお第二党を占め、また社会主義思想そのものは受け入れてたいたことから、国民の大多数が農民であるウクライナにおいても、共産化に賛成する人は珍しくはなかった。
中央ラーダの大多数も社会主義を掲げており、「私有財産の完全な撤廃(共産主義)」とまではいかなくても部分的には同じか、それと類似した思想を持っていた。
しかし彼らが求めていたのはあくまで”民主化”であり、”共産化”ではなく、根本的な問題はイデオロギーの対立よりも、イデオロギーが根差すはずの土台である国家と民族の主権から生じていた。
レーニン自身は終生”民族自決”という考えそのものを否定することはしなかったが、彼の言う”民族自決”とはあくまで、”世界革命”、すなわち全世界の共産化を成し遂げる手段であり、一切の主権は全て共産主義という大前提の下でのみ成立した。
世界革命の過程において武力衝突は必須であると確信していたレーニンは、ソビエト政府にとって穀物と物資を供給する最も重要な兵站の一つであるウクライナに対しては全く妥協せず、約一月前ほど前に掲げた「ロシア諸民族に関する権利」を翻す形で中央ラーダに向けて侵攻を開始した。もっとも翻すとは言っても、”ロシア諸民族に関する権利”とあることからもわかる通り、「ウクライナはロシアの一部」という意識が前提として存在している以上、侵略者の立場からは反故したことにはならないのかも知れない。
しかしこの「ウクライナはロシアの一部」という意識こそ、現代社会におけるロシアとウクライナの紛争においてロシア政府がロシア国民に対して戦争を正当化する最も重要な根拠の一つとなっている。

1918.1.22 ウクライナ民主共和国の独立宣言

中央ラーダのウクライナ民主共和国は、国際社会に対して自らの主権を示す為に正式に独立を宣言した。
ボリシェヴィキの台頭は国際社会の新たな脅威として認識されていたものの、大戦は依然として続いているため連合国に支援を求めるのは難しかった(名目的にはソビエト政府は連合国であるロシア帝国の後継であるため)。
また連合国の方でもロシア内部の力でボリシェヴィキを打倒する期待を持っており、その後のロシアとの関係、また連合国として大国の地位を保ってもらうために独立を望ましくないと思っている節さえあった。
しかし差し迫った脅威に対抗する為にはもはや連合国と対等に戦うことが出来る中央同盟国と協力する他にはなく、下手を打てば主権を失うほどのリスクと引き換えに支援を要請した。
だが結果は懸念された通りで、ウクライナの新たな庇護者となったドイツとオーストリア・ハンガリー帝国は対ソビエト政府を口実に過酷に取り立て、それはロシアが大戦から離脱した後も続いた。
これは国内の中央ラーダの支持者からも厳しく非難され、さらに一時的な措置とはいえ中央同盟国と結んだ為に連合国からも潜在的な敵国と見なされる様になってしまった。
同盟国と結んだことによってロシアとの対立は決定的となり、中央ラーダは内外から批判され、中央ラーダそのものも徴発能力に不満を持ったドイツによって独裁政権に変質させられ、独立を宣言したウクライナ民主共和国はかえって国際社会から孤立することとなった。

1918.2.18 ブレスト・リトフスク条約

ソビエト政府と中央同盟国(ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、ブルガリア王国、オスマン帝国)との間で交わされた講和条約。この条約により、ロシアは戦線から離脱した。
そしてそれと引き換えに、大戦中に中央同盟国に占領された旧ロシア帝国の領土のうち、バルト三国とポーランドの一部、ベラルーシの一部、ウクライナの大部分の宗主権を手放すこととなり、さらには多額の賠償金を課された(1922年ドイツとはイタリアでラパッロ条約を結び互いに賠償金の支払いを放棄している)。
戦争の早期終結は実現したものの、1917年11月に発布した”平和に関する布告”の中で掲げた「無賠償・無併合・無割譲」は全く果たすことが出来ず、高い代償を支払うことになった。
この結果は、十月革命を支持した人々からも、ボリシェヴィキ内部からも厳しく批判され、内部分裂の危機を生じさせた。
しかし戦争の早期終結は絶対であると信じて講和条約の締結を強行したレーニンは、これはあくまで世界革命の為の一時的な後退に過ぎず、その為には何よりもボリシェヴィキと国民の団結が不可欠であると力説して周囲を説き伏せた。
そして結果的にロシアが撤退した後に連合国が勝利したことで、ブレスト・リトフスク条約で失った領土の一部は取り返すことができ、ソビエト政府はどうにか持ち直し、革命の口約を果たしたレーニンの威信も復活した。