1917.3.8 二月革命とロシア共和国の誕生※¹
ロシア帝国の威信は「血の日曜日事件」、そして「日露戦争」の敗北によってすでに地に堕ちていた。
第一次世界大戦の勃発は帝国にとって、一時的に国内をまとめ、民主化を求める勢力を抑えるのに役立ちはしたが、大戦中は緒戦から領土を占領されるなど苦戦を強いられ、その為、すでに深刻化していた食料不足に不満を募らせた兵士や民衆からすぐに支持を失い、反対に彼らはパンを求めて各地で暴動を起こす様になった。
そして暴動は次第に反乱となり、民主化を求めていた各政党もこの動きに合流し、食料と平和、そして自由と権利を求める運動は”市民革命”となり、ついには約三百年続いたロマノフ王朝に終焉をもたらした。
その結果、ロシア帝国最後の皇帝ニコライ二世は退位し、家族と共に逮捕された(後にボリシェヴィキによって処刑)。
そしてツァーリズム(皇帝独裁)の後に打ち立てられた国家が「ロシア共和国※²」である。
成立してまもないロシア共和国の政府は、「ロシア臨時政府」と呼ばれ、主なメンバーは、資本家や知識人を基盤とするカデットと農民層の支持が厚い社会主義系統のエスエルと、一部のメンシェヴィキである(あくまで社会主義革命を優先していたメンシェヴィキの指導者であるマルトフは臨時政府には合流しなかった)。
帝政崩壊は実態としては市民革命であるにせよ、革命の為には暴力をも辞さない急進的なボリシェヴィキにとって社会主義革命を実現する格好の機会ではあったが、ボリシェヴィキはこの時期帝国の弾圧によって革命を主導できる状態ではなく、指導者であるレーニン自身スイスに亡命していた。
彼らが”ボリシェヴィキ(多数派)”となるのは、次の十月革命の後のことである。
※¹「1917.3.8 二月革命とロシア政府の誕生」は現在の暦であり、旧暦では1917年2月23日である.
※² 名称の変遷は、ロシア帝国→ロシア共和国→ロシア・ソビエト社会主義共和国連邦→ロシア連邦(現在)。
1917.4.19 帝政からの離脱を図るウクライナ
二月革命後ウクライナは、17世紀半ばから二世紀半以上続いたロシア帝国からの支配から逃れることができたが、依然としてロシアを、つまり「ロシア共和国」を宗主国とする従属国であったーーそこでクライナにおいてもまた、民主化を求める動きが活発化した。
しかし帝政が崩壊したとはいえ、群雄割拠が続く20世紀のヨーロッパにおいて長らく覇権国の一角として君臨してきたロシアから急に離れることは、国内の社会的・経済的安定、またロシアそのものとの関係悪化、国防の観点などからあまり現実的ではなかった。
また帝国を倒したということは、民主化への道を拓いたということであり、民主革命への評価、そしてロシア国内の今後の変化への期待から、当初のウクライナで主流となったのは、ロシアの宗主権を認めつつ、その中で政治的・経済的な自治権を確立して行く協調路線であったーーより独立性の高い意見は力を持ち辛い状況であった。
しかし彼らは帝政を終わらせた「二月革命」を評価はしていたがーー穏健派・急進派といった違いはあるにせよーー誰もが本心では民族自決を望んでいた。
そこでウクライナの各政党は、1917年4月19日から1917年4月21日に渡って会合(ウクライナ国民大会)を開き、派閥に関わらず諸勢力を糾合させ、民主政党による超党的な連合政体「ウクライナ中央議会」を発足させた。
中心となったのは、作家のヴィンヌィチェーンコや後にボリシェヴィキとの戦闘を指揮したシモン・ペトリューラが率いる社会民主労働党(USDRP)、歴史家のフルシェーウスィクィイが率いるウクライナ社会革命党(UPSR)などであったが、急進的なUNPや、USUSも加わっていた。
ウクライナ中央議会は「中央ラーダ(評議会)」と呼ばれており、”ラーダ”はロシア語の「ソビエト(評議会)」に相当する。
1917.11.7 十月革命
二月革命を果たして権力を掌握した「ロシア臨時政府」であったが、ここにもう一つ別の勢力が存在した。
それが革命の発端となり、単なる市民運動に過ぎなかった暴動を指揮して反乱に押し上げた兵士・農民、労働者で構成される「ソビエト(評議会)」である。
革命の功労者である彼らはこの時すでに、臨時政府に並ぶほどの存在感を示しており、二月革命後のロシアは、臨時政府とソビエトが拮抗する、いわゆる”二重権力状態”であった。
しかし困窮を原動力として成立した臨時政府は、食糧難の主な原因である戦争の継続を主張し、ソビエトと対立した。
これはすでに劣勢に立たされているロシアが和平を申し出れば、過酷な講和条約を結ばされるのは必然であり、同じ民主派でも全く異質なレーニンら「ボリシェヴィキ」や、後の「ロシア内戦」で旧帝国側の中心となる帝政復活を望む将校達に隙を与えると考えられたからである。
しかし国民の忍耐はすでに限度に達しており、食料と安息への渇望から各地でデモが始まっていた。
そこでこの頃すでに帰国していたレーニンとレーニンらボリシェヴィキはすかさずこの機に乗じ、1917年4月にすでに発表していた「四月テーゼ」と呼ばれる”帝国主義同士の戦争からの即時撤退”、”全権力のソビエトへの移行”、”ソビエトが運営する国家を共産主義と呼ぶこと”、”現行の臨時政府は断固として拒否されねばならないこと”を示した綱領に基づき、「パン・土地・平和」を掲げ、民衆の先頭に立って反政府運動を展開した。
スローガンの中に「土地」とあるのは、国民の約80%が農民でありながら、一部の資本家による搾取に長年苦しんできた彼らにとってボリシェヴィキが掲げる「土地の再分配」は、「パンと平和(ここでの平和は”恒久平和”とは異なる)」と同じ位に切実だったからである(なお土地の再分配の原案はエスエルである)。
また臨時政府の中心であるカデットの主な支持層は地主層であった。
そして1917年10月24日(現在の暦では11月7日)ペトログラードへの進撃を開始し、翌日には臨時政府が置かれていたペトログラードの”冬宮”を制圧した。
こうして後のソビエト連邦の母体となる「労働者・兵士・農民代表ソビエト政府(人民委員会議)」が、ロシア臨時政府に代わる新たな政府となった。
新政府の首班は”議長”と呼ばれ、レーニンがその座に就いた。
