思索と詩作

人間は少し眠っている方が良い。精神が最も澄んでいるのは朝である様に。

世の中に君の知らない叡智などというものはない。ただ君の知らない事があるだけだ。しかしそれも君が知ってる事と比べて何か特別な秘密がある訳ではない。

だが、権威による統率は必要なのだろう。それは、自分が人に求めるものではないけれど、自分が自分に求めるものという意味においては許される。

地位や身分に関わらず、君は今まで生きていたし、今も生きている。君が今持っている物の中で、ある時にだけ許されて、ある時にだけ許されないというものはない。もしあるとしたら、それはいつだって許されているし、いつだって許されていない。

大人はしばしば「お前が困る」と言って子供を説得するがそれはおかしい。お前が困る分にはどうだって良いのだ。

予め特定の立場に立っている人間はどうも信用出来ない。そうした立場は普遍的であればこそ立場を必要としていたのだから。立場を借りて話すということは自分自身その立場を信じていないことになる。だから目の見えない人の言葉はいつも切実なのだ。そして主義者だと自称されるよりも、お袋を大切に出来ないやつとは友達になれないと言ってもらった方が余程信用出来るのだ。

世界を見渡せば、無数のメディアと奔放な報道を許容する国と、たった一つのメディアしか認めない国がある様に、自分の国から見る意見の分断など実に小さなものだ。しかしどうしてもわからないことがある。どこの世界へ行っても規範になる様な人達がいて、またそういう人達をどこの国でも模範としている訳だが、そういう人達は大抵この枠組みの中では中庸な立場を取っているのに、何故右とか左とか分けたがるのか。人間の傾向がわからないんじゃない。何故すぐ目の前にその人がいるのに、あえて違うことをしようとするのか?しかもその挙句に、誰もが同じことをする。この僕でさえわかることを、僕より遥かに寛容な人達が何故わからないんだ?

人にはただ「良い状態」と「良くない状態」だけがあり、良くない方に様々な状態があるだけだ。しかしだからと言って良い方を規定しないことを責めてはならない。

認めたくはないが、ごく退屈な仕事は、自らの知性を健全に保つのに必要なのかも知れない

広い心は押し上げることはないかも知れないが、少なくとも押し下げることはない。何か”良い”とされているものに利益を求めばかり求めるのはいかにも狭隘な考え方である。直接作用するものなど実際にはなくて、間接的に作用するものばかりであり、その作用も”不利益にならない”という意味においてなのである。

俺が説教くさい奴だと?お前は自分のことを子羊だとでも思っているのか?

小さな罪ほど圧力を必要とする。大罪に大きな圧力は要らない。罪そのものが周囲を引き付け、やがては圧し潰されて行くから。
小さな過ちでも人々が頭を下げるのは、予測不可能な大きな罪を失くしたいと願えばこそであるーー要するに人が恐れているのは無力と、
イワンよ。君なら多分、「だから小さな者を咎めるのだ」と言うだろう。
しかし「小さな咎人」への糾弾とは、「人類とはそういうものである」、という人間自身の意志表示に他ならないのである。
ここに正義があるのか、私は知らない。
ただ少なくとも進歩はある様に思える。
少なくともそれは、死刑を人類の意志表示として温存するというあの大義以上には、形式以上のものではなかっただろうか?
しかし君は多分「そしてその小さな咎人の犠牲が何の役に立つ?」と聞き返すだろう。
だが、どうだ?「小さな者」を虐げて神の世界に近づこうとしていたあの頃の我々よりも、我々は随分マシになったのではないか?

話したことや書いたことはずっと残る。
聞いたことや読んだことは君が死ぬまで残る。
だから何か言う時には一万先も自分が同じことを言っているであろう、という確信が必要だ。
だから君が何かを手に取る時は、君が死ぬ時になっても同じ価値を持つものを手に取れ。
もっともその価値が何であるかは今の君にはわからないだろう。しかしそれを教えてやるのが君より先に生きた者の務めだ。
だがそれを教えることが出来ないからこそ我々は難渋している。
だからこれだけは言っておこう。
価値があるのかないのか、今判断する必要はない、と。
人はいずれ最後に残る者を君たちに託すのであって、今役に立つものを君たちに授けるのではない。
そしてついでだからこういうことも言っておこう。
今役に立つものなど数えるほどもない、と。

自分を大きく見せようとしてはいけない。しかしそれと同じ位に自分を小さくしようとするのは良くないことだ。

我々は決して全能などではないけれど、もし全ての人をクリエイターと呼ぶのなら、我々は確かに我々という小世界の神ではあるのだろう。

俺に敵対する冷ややかで嘲笑的な意見に対する俺の憎悪は、俺と最後まで敵対する覚悟のないことにある。だから俺はどこかでそうした意見を刹那的と括っている。
そんな脚でよく俺の前に立てたな、と。

意見だけでは世界は動かない。だから意見だけの人間には価値がない。その通り。だからその意見の最終評価はその人が死ぬまで待つべきだ

つまらぬ仕事とはつまり、自尊心が満たされない仕事である。

何故、性善説と性悪説で考えようとするのか?それは丁度色環の様なものであって、要するに度合いと程度の問題だ。我々には否定しようもなく善と悪の観念があり、だからこそ性善説と性悪説で考えようとする。だが本質は、対象が我々の中にある観念といかに近似であるかにかかっている。その行為が我々の善と対極にある悪ならば、それは悪であり、我々が憤激するところの悪である。これに対して反逆的行為・義賊的行為に見られる、善と悪の丁度隣り合わせの様な行為もある。しかしこんなことはいくら並べてみてもつまらない「色分け」に過ぎない。そんなのは思弁的分類であり、子供の遊びだ。また「性善説と性悪説の対立に見られる二元論こそ諸悪の根源である」などと言うのも退屈な思弁だ。それは「悪いものは悪い」と言っているのとさして変わるところがない、もっとも説教に不向きな者の屁理屈だ。大事なことはつまり、善と悪などというものは確かに存在せず、我々があって初めて存在する純粋な観念論ということ。そして観念の純粋さとはまさしくこの点にこそかかっているということ。そして我々は我々のこの身体と同様に、この観念に引き回されているということ。だからこそ空腹を癒す為に命を賭して戦うのである。

何故我々は力で解決しようとしない?そっちの方が早いだろうが

命を賭して取材しているジャーナリストの勇気に比べたら、我々が臆見を披露する時の勇気などたかが知れているものだ。だがそんな勇敢な者ばかりの世界で自らの正当性を押し付けあったら、この社会はどうなる?だから自由が必要なのだ。丁度我々が我々自身に妥協を感じながら、ジャーナリストが日々上げてくれる情報に甘んじている様に、丁度我々が小さな子供ならぶん殴って列からどかして前に並べるのにきちんと順番を待っている様に。自由とは要するに、理性から生まれた妥協が生んだ不自由に過ぎないのだ。では、勇敢なジャーナリストには理性がないと?いや、彼らには妥協することが出来なかったのだ。何故なら理性から妥協が生まれ、妥協から自由が生まれるというのなら、理性がなければ妥協できるはずもなかったので。

どれだけ大間違いを犯しても、いかなる誤謬に陥ったとしても、最後は権威に擦り付けることができる。それが権威の強さである。
間違うことへの恐れとはつまり孤立することへの恐れである。
しかしどちらが人間の弱さかというと恐らく前者だろう。
何故なら「孤立しない」過ちを恐れる必要は全くないからである。
権威主義は確かに間違いのない手段であるが、それは自分の自尊心にとってという但し書き付きである。
自尊心が人間を成長させたということには部分的には同意出来ても、それをそのまま権威主義を肯定する理由に使うのは甚だしい不正である。
また私がここで「部分的には」というのは、間違いに耐えられない自尊心は脆弱なガラス細工だと言うのと、成長が人間の全てではないからである。
何故と言って、多分だが、君のお袋さんは君を生んだ後から今日までそれほど進歩していないはずだからである。

結局のところ自分の意見に対する自分の怯えは、自分が絶対に正しいと思い込もうとしているその不正にある。つまり、その意見が正しいかどうかはともかく、臆見を信じようとするその姿勢の不正に、自分自身すでに気が付いているのである。
それは後々に自分の間違いが証明されることに対する恐れ、そしてその為に、自分が笑い者になり、孤立することへの恐れである。
この順序は結構重要であって、何故なら、自ら正しいことを予め知っている、あるいは例え間違っても身代わりがいる、という状況では、人はどんな恥知らずな真似もしでかさないとも限らないからである。
特に後者は権威主義が暴徒と化した時にしばしば見られる。
何故なら権威主義とは、どんなに間違えても最後の一線を請け負ってくれる保証人であり、それが象徴性以外に権威が持つ、権威の強さだからである。

自由に書きたいと思っても以外とそんな場所はないものだな。それは一つにはそんな自由に価値がないということ、それからそもそもそういう自由が存在しないということ。

科学は自然を自然のままに。哲学は観念を観念のままに。文学は人間を人間のままに。経済学は社会を社会のままに。科学は我々がまだ知らないが故に不確かで、哲学と文学は人の目を通したものとしてしか存在しないが故に不確かで、経済学は全てを捉えることが出来ないが故に不確かである。

哲学とか文学は現実そのものじゃなくて、現実を反映した人間の観念としてしか存在しないし、またそうであることを想定されている。なのにその観念の中ですら、有機的な結び付きを持たないとしたら、それこそ何の為にあるんだと言われても仕方があるまい。

未完成品は未完成品だから意味を持つ。完成品ばかりだと後に続く者が困るじゃろ。

ニーチェの言う「権力の意志」の意志とは、ショーペンハウアーの言う「意志と表象」における意志に類するものだろう。それは衝動的であり、本能的であり、物質的であり、物質的であることを肯定するところの意味において実際家的である。だが思うに、一般的に支配という行為そのものは表象に属するものなのではないか?いや、哲学者の中にも俗物がいる様に、支配者の中にも俗物がいる、ただそれだけのことではないか?つまり、名君とは、表象的である。人は人に押し立てられ、自ら指導者になる時、そこに他意はないし、恣意もない。全てが観想のごとくなだらかであり、誰も彼がその地位を降りることを望まないし、彼自身その地位に安んじている。そして彼が居なくなるとその集団は寂しささえ感じる。だがこれが成り立つのは、比較的小規模の集団である。この集団が巨大になると、彼らは家族や仲間ではなく、大衆となり、そこに”意志”が生まれる。だから意志は大衆的なのである。そして意志は非合理的であり、感情的であり、それ故にまた根源的なのである。だからルサンチマンとは本来、表象を望む大衆の願い、すなわち「表象的たれ」との要請なのではないか?そしてここに意志によって堕落した手段としての道徳、あるいはそうした手段を道徳と呼ぶ嘲笑が生まれる。だが、そんなことは本当はどっちでもいいことだ。何故なら我々はただ、フョードル を暴君に見立て、イワンを名君とし、ドミートリィを大衆と呼び、アレクセイをそっとしておいてやれ、と言っているに過ぎないのだから

彼らにしかわからない間合いというものがある。人はそれを何よりも重んじるし、美しいことだとさえ思っているのに、それをまざまざと見せつけられると、この上なく嫌悪を催すのは何故か。

科学は自然を自然のままに。哲学は観念を観念のままに。文学は人間を人間のままに。経済学は社会を社会のままに。科学は我々がまだ知らないが故に不確かで、哲学と文学は人の目を通したものとしてしか存在しないが故に不確かで、経済学は全てを捉えることが出来ないが故に不確かである。

哲学とか文学は現実そのものじゃなくて、現実を反映した人間の観念としてしか存在しないし、またそうであることを想定されている。なのにその観念の中ですら、有機的な結び付きを持たないとしたら、それこそ何の為にあるんだと言われても仕方があるまい。

自分を客観視しろと言うが等身大のまま見つめても仕方がない。自分を客観的に見てみたいなら自分の理想形を通して見てみるべきだ。

俺は常に絶対者を演じる。
何故と言って自ら絶対ではないと信じていないのなら、何も話すべきではないからだ。
そうだろう?
自分が正しいとすら思っていないことを何故人に話す?
そうだ。独善は始まりに過ぎない。

何故同情が時に人を激昂させるか?それはまさに彼が「自分は同情されるに値しない」と信じているからである。敬い、畏れ、平服するべきだとさえ思っているからである。

詩人は絶対的な回答者であることを求められる。しかし絶対的回答者であると思われてはならない。だから彼らは、言葉の規則や調子、文章全体のまとまり、あるいはその流れによって、形式的に絶対者を装うのである。そしてそうすることにより、その場、その時においては絶対君主となる。そしてその完結した数行の世界において、かの韻律に背く者全てが反逆者となる。

「思索しろ」と言われると中々出来ないものだ。
思索する機会はいつでもふとした時に訪れるもので、その時には弾みが付くけれども、そういう機会が与えられないといつでもぎこちない。
しかしそれは足元に答えがあるのに気が付かずに遠くばかり見ようとするからであり、目的地を目指して背伸びをした格好で歩いている様なものである。
してみると我々はいつでも、爪先立ちで歩いている様なものなのであり、思索している時が自然体であり、そうでない時はむしろ緊張している。

思索は突然去来するものなので、それを然と捉えるのは難しい。
これが一つには哲学の難しさである。哲学的体系をいざ立てたいと思っても、その体系を立てる為の要素は、いつも断片的にしか現れないし、気まぐれである。だからある程度生きてみて、思索が溜まったら構築するしかない。
だがある程度とは、一体どの程度なのか?ーーそこに哲学の究極があるのではないか?

リスペクトとは、人を侮らないことであって、畏まることではない。
例えば権威者の前でびくつている小心者や、横柄な客に対して平服する者がそうだ。彼らは要するに「そんな程度のことで相手は怒る」とか、「こちらが自分を卑しめなければ満足しない卑しい人間だ」と思っているのだ。これは一つの侮りである。
またあるいは、明らかに相手を見下しているのに、敬意の身振りでそれを隠そうとする者がいる。しかし払う必要のない敬意は、自分の優位を自白しているのと同じである。
例えば、私が笑い者にされている時、私の長所を上げて私を庇おうとするお節介者がいるが、私を笑っている者達はそれを知りながら、あるいはその為に笑っているのである。
だからそんなことを言っても無駄であるし、それはますます私の気分を不快にさせる。しかしそれでも言うのは、その間に合わせの言葉で十分だと思っているからである。
それをひねくれ者は悪意と取るが、そうではない。ただ不足しているだけである。
確かにそういう人間は決して君の味方にはならないし、君の為にも戦ってはくれないだろう。機会さえあればいつでも切り捨てるはずである。
何故ならそのお節介者は「賛同する」ということだけは避けたからである。そして彼が欲しがっていたものはまさしくそれであろう。
そして彼らこういうのである。彼らは「善人ぶっている」と。
ひねくり者が”浅い”理由である。
何故なら彼らはそもそも善人ぶってすらいないのだ。

匿名で書き込む時に気を付けなければならないことは、その言葉を自分の周囲の人間に見せられるか?ということだ。

子供の頃の自分が自分に期待していた事をしようとするのかも知れない。原始的な記憶が、自分を試そうとするのだ。

我々は猿が組織を組織し、他の種族の撃滅を企てているのを見たら何と言うだろう?

かつてどうであったかにこだわるな。君はさっき始まったのだから

人は自分が千年生きたとしても、同じことを言っているであろうということだけを言うべきだ。

君が神なら自分の国をどういう人物に治めさせたいと思うんだ?

喪失に対する悲しみとは過去ではなく未来に対してである。

目立とうとするということに関しては人はよく工夫する。

世界には様々な主義主張が溢れていて、それはうんざりする程である。その中で自由主義は、最も公平な形であらゆる人を集合させる主義になり得る。それは丁度イデオロギーによる結束が民族主義を勃興せしめたのとよく似ている。
しかし現行見て取れる通りに自由主義は何ものも退けていないし、 弱めたりもしていない。あらゆるものを包摂しつつ、目に見える形で進歩を生み出している。うちみたところでは自由主義は 、支配さえ拒んではいない。ただ自由主義はその為に合理的釈明を、あるいは民主的釈明を要求するのである。
このどちらかの点で手抜かりする者に対しては自由主義は容赦ない。それは競争原理にも似た圧力でただちに淘汰しようとする。だがその為に民主主義的釈明は度々攻撃される。別に競争原理だけが原因ではないが、根底においてそれを手引きとしているあらゆる合理論によって脆弱を晒すのである。
そしてそれは現に行われている。現今の各国の指導者を見てもわかり通り、彼らは専ら自由主義を掲げはするが、民主主義に対しては慎重な姿勢、あるいは懐疑的、抑圧的な姿勢を示している。
これは市民の目から見ると、自由主義を盾にした専制的な態度にも見える。これは彼らの政策に賛同しているか、賛同していないとかに関わらず市民の根底に流れる一つの懐疑である。何故ならこの猜疑心の原因は、民主主義への攻撃から生まれているのではなく、そもそも彼らが「自由主義を理解しているのか?」という疑いから生じているからである。
いかなることも我々は「述語によって述語を説明する」ということに甘んじてはならない。また「すでに説明されたこと」と自惚れてもならない。
昨今の右傾化の原因、リベラリズムの敗北がリベラリスト達のずさんな説明にあったということはおよそ疑い得ないことであろう。

自分自身が後で見返すことのない様な情報は、多分重要ではないのだろう。

俺に敵対する冷ややかで嘲笑的な意見に対する俺の憎悪は、俺と最後まで敵対する覚悟のないことにある。だから俺はどこかでそうした意見を刹那的と括っている。
そんな脚でよく俺の前に立てたな、と。

ネットでいがみ合いしている連中の99.9%は周囲への示威行為で説明が付く。

人道支援の資金に手を着ける者。それを騙って金を集る者。自分は働かずに家族から搾取し、手を上げる者。こういう者達だけは、ロケットに括り付けて地上から追放するしかない。

「自分は外で働いている」というまさにそのことからお前は対価を得ているだろうが。

人々が人工知能によって奴隷の肩代わりさせようとしていることがすでに人々の良心の顕れではないか?

しばしば思うことは我々は遠い国に住む人々を農奴として扱っているだけで、奴隷制は依然として続いているのではないか?ということである。

我々は経験という概念に従って生きている。
けれども我々は経験という概念を観念としか知らない。
それは丁度心臓の仕組みを知らないのに、八十年もの間、それを使い続ける我々の生涯と良く似ている。
技術を知識として知るということは、概念を観念として知るということである。
これは教養である。
我々の創造は常に観念を要求しているから、教養は必要である。
だが教養に概念を期待する人を、私は観念的だと批判する。
それはただの越権行為である。
これは教育の場やいい加減な思想家の間でしばしばわりと平然と行われているプロパガンダである。
こうした行為に対しては我々は厳しく咎め立てなければならない。
ところで、たまに概念を概念としてしか知らない人がいる。
だが、本質的には概念としてしか知らない人などいないはずである。
それは丁度心臓外科医が心臓を概念として知り尽くしているとは言っても、我々が抱く心臓の観念を彼らが知らないはずはないのと同じである。
概念を概念としてしか知らない人は恐らく、ただの観念論者なのであろう。
彼らが知識ある者の様に振る舞えるのはただ、彼らが概念的に彼らの知識を試されたことがなく、そしてまた知識というものがそもそも観念的なもの過ぎないからである。

全てを拾い集め終わった後に完成するのが、哲学的体系ではないか?

ウィトゲンシュタインは言った。
”賢い者なら全世界を言語で描きたいと思ったことがあるだろう”と。
君がもし理性とは何かをよく知っているのなら、君の言葉は多分正しい。少なくともそれは世界の誰もが思い付いたことであるが、しかし誰も言わなかったことだから。
世界がそっくりそのまま言葉に置き換わる、かは知れないが、そうやってピースを埋めていくんだ俺達は。

人というものに焦がれている。一方で人というものに倦んでいる。
俺が人を恐れるのは俺が嫌うものを人によって呼び覚まされるからだ。
夜、背の低い木陰のベンチで少し遠くを見ている時、人が視界に入らないでくれと願うのはまさにそのためだ。
彼らが楽しげに歩いていると特にそう思う。
しかし一方で自転車に乗ってすぐに通りすぎて行く人に対してはそう思わない。彼の自転車のライトは、街灯や遠くに見えるマンションの窓の光や荷物を運ぶトラックのヘッドライトの様なものなのだ。
マラソンをしている人にもこれとある程度同じことが言える。
それは彼らが自分と同じ様に孤独だからか?
いや、違う。この関係は俺の目に映る光景と彼らの目的による。自転車はそれ自体が目的なのだ。だがマラソンをしている人はそうではない。
だから彼らは「ある程度」なのだ。
楽しげに誰かと歩いている人が視界に入らないで欲しいと願うのは、他愛もなく楽しみを求める自分への嫌悪に他ならない。
だがそうしたものを人は確かに自分のうちにもっているものなのだ。
ただ漠然とそれをそうしたいという、それを。

偉大な言葉を見失うな。
その言葉は確かに心地よい。物事をあまりに一般化しすぎる。
だが世界はあまりに複雑だ。
しかしだからといってその旗にあまりにごちゃごちゃ書きすぎてはならない。
それは予定帳ではないのだーーそこにプロットを見出だすようなことをしてはならない……さもなければ、撃ち殺されるだろう。
我々はあの旗を見て進むのだ。そしてあの旗も我々を見ているのだ。
だから目を逸らすなよ?
太鼓を鳴らし、足並みを揃え、ざっくざくと進むのだ。元気よく、朗らかに

自分にも良くしてやれ。
人に対してそうするように。君だって普段は人には好意的に接するだろう。
少なくとも相手を不快にさせない様にしているはずだ。
そういう態度を自分にも持て。

信頼してくれるからこそ難しい。敵対者の方がずっと気安い。
だがそれは丁度、寝ているだけの人生の方が楽だという様なものだ。それだから要するにこれは、ただ漫然と過ごす日々に何の価値があるのか、という話に過ぎないのだ。
してみると不思議ではないか?
戦場でこそ我々はくつろげるのだ。
戦うことが人間のさだめだというのもまさしくここから出ている。
しかし戦争の矛盾はまさしくここにこそある。
憎み合う為に信じ合えばこそ、我々は立ち上がるのだ。
孤独を求めればこそ我々は戦うのに、安らぎを求めて血を流すのだ。
甘美な眠りに就くのに、我々は何故死にに行く?

俺達は何かを前提としている。
俺の一切は、つまり今こうして書いている言葉や発する言葉、あらゆる所作、前身へと向かう全ての試みは混沌から生まれると信じている。
だがその混沌はどこから来るのだ?
俺の言う深淵、つまり俺がそこには近付くなと、それが見えたら引き返せといつも警告してきた渓谷とはまさしくこのことだったのではないのか。
すなわち混沌の根源を求めるなーー。
何故なら我々は何者でもないし、これからも何者でもないからだ。
過去に幻影を見て、未来に幻想を抱くから、今を見つめることができない。
過去を振り返ることを弱さだと言うのはまさしくこの為だ。秒刻みで死に向かっているのに未来を恐れないのはその為だ。
だから我々は勇気をもってこう言おう。
我々はすでに始まっているし、いつでも始まっている。

今俺を突き動かしているのは確かに混沌だ。それは最後には整理されなければならないものだ。いや、そんなことはない。嘘をついてはならない。正直に言うんだ。本当は整理する必要のないものだということを。
それらは全て伝える為の所作に過ぎず、お前が気にしているのはたかだか形式に過ぎないのだとーー俺一個で完結しているのなら、ばらばらのままでいい、と。
俺が一度こうして形にした時、俺はすでにそのことを二度と忘れないだろうし、どれだけ綺麗に集めても、俺はその通りに生きる気など決してないだろうから。
だから俺は俺に指示をしないし、する必要もない。しかし俺が俺に指示を出なければ俺は永遠に詩を書き続けるだろう。
なら、それが俺の本性か?
だがそれが俺のただ一つの道だというなら、俺がその道を行けるのは、俺が今まで散々周り道をして来たからだと言うことが出来る。だから俺は結局詩人になることは出来ない。頭の先からつま先まで詩人になれるほど俺は出来た人間じゃない。
だから俺は俺の心に詩人とは別の司令官を留めておく必要がある。
そしてここに詩とは別の、そう、あの哲学が生まれる。
要するに司令官は哲学者なのだ。
しかし彼は厳めしい、勿体付けた、鼻持ちならない野郎だーーひょっとしたらペテン師かも知れぬーー俺達は彼をどう扱ったら良いのだ?
あの物々しい、うつけ者の、そのくせ訳知り顔の賢者の様な面構えをしたあいつをーー?
そこで我々は哲学者の衣を脱いで生徒になる。
さあ、彼は一体今度は何になるというのだ?我々に何を見せてくれるというのだ?
思い出せ。我々は何の為にペンを握った?
そうだ。あの哲学者をどう扱って良いかわからなかったからだ。あの厳めしい司令官にどう接したら良いかわからなかったからだ。
だが答えは出せない。ただわかっていることが一つあるだけだ。
我々はこの時期に学んだことを、この時期に得た教訓を通して人の群れの中で生きているということだ。
だからいつでも自分自身が仮初に感じる。
だがこれはペルソナではない。私の哲学者が教えてくれるところによれば、ペルソナと呼ばれるものはたかだか教訓という言葉に収まる、生きていく為の権謀術数に過ぎないからだ。
だが我々が初めて我々自身の為に被った仮面と相対しなければならなくなのは、その生が教訓を必要としている時である。
何故人は詩人をある種の逃亡者の様に扱う?
そう。それはまさしくこの対峙から逃げ出した為だ。
だが勝利した者がいるのか?そもそもどうすれば勝利したと言えるのだ?
我々は勝ちたいのではない。勝つための条件が知りたいのだ。
我々が求めるものは殲滅ではなく、制圧である。
我々自身に向って我々を象った仮面が二度と我々を惑わすことのない様に永久にその口を鎖すことである。
その時我々は何を思うのだろう。あれほどあがめていた我々自身の現身を我々自身で塞いで、全くの者になってしまったら、我々にはもう何も残されてはいないではないか?
だから我々はいつでも何かに支配されていたいと願うのだ。
だから我々はいつでも不自由なのだ。
しかしそれ故にこそ我々は支配を拒むのだ。
我々自身の我々への信仰を誰にも奪わせない為に。